この樹海の中に人工の構造物が存在する。一体いつ、誰が、何のために造ったのか?その謎に迫ります。
その構造物があるのは、青木ヶ原樹海の旧上九一色中学校入口バス停の近く、東海自然遊歩道を入ったところ。
富士河口湖町教育委員会 文化財係学芸員の杉本悠樹さんに案内してもらいます。
「石塁」と書かれた看板から樹海の奥に入っていくと、ありました。
石が積み上げられたようなもの
これが「石塁(せきるい)」です。
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国道近くでは崩されてしまっていますが、延々と続く石積みを辿って奥へ進むと、高さ180cmに達するほどの石塁となります。
この石塁はその長さはなんと2km!
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弧を描くように石塁が造られている
コケに覆われていますが、石塁の材料は富士山から流れ出て固まった溶岩。溶岩を巧みに積み上げて造られているのです。
石塁をよく見ると一方の面が垂直に近い形で積み上げられています。逆に反対側は若干傾斜がつけられています。
垂直の面が撃退すべき“脅威”が来る方向ではないかとされています。
それではこの石塁 いつ・誰が・何から守るために造ったのか?
未だにハッキリとした答えが出ていません。
学芸員の杉本さんによりますとこれには3つの説があるといいます。
■ 説その1:戦国時代の防衛施設
本栖という土地は現在でも静岡県との県境で、昔から駿河と甲斐の関としての重要な場所で、弧を描く石塁の内側には本栖集落がありました。
そのため、街道の要所である集落を駿河からの侵攻を防ぐために造られたとの考え。
■ 説その2:江戸時代に獣害を防ぐための「しし垣」
集落を取り囲む形で耕作地が形成されているので、樹海に生息する獣から作物を守ろうという考え。
■ 説その3:集落を溶岩流から守るための防護壁
864年(平安時代)にあった富士山噴火による青木ヶ原溶岩流と同規模の溶岩流が発生した場合、集落が飲まれないように壁を造ったという考え。
しかし、どの説も決め手には欠けていると言います。
■「 説1 戦国時代の防衛施設 」が決定的ではない理由:
街道の集落を守るための防衛施設とするならば、この石塁が当時使われていた古道、「中道往還」に接していない。近くには本栖の城山という山城がありますが、そこからも離れていて、連動性も感じられない。
更に、石の積み方が違います。中道往還に関連する石塁は、煉瓦積みのような非常に丁寧な積み方になっていますが、この石塁はとても簡単な積み上げ方ですので、防衛としての城山の石塁とは作った意図が違うのではないか。
山梨県内でも「しし垣」の事例はありますが、これほど立派なものを造ったという記述がどの古文書に記されていません。江戸時代に造営されたのであれば、地域の伝承に残っているはず。
しかし、この石塁は1987年(昭和62年)に発見されるまで地元でも忘れ去られていたものなので、江戸時代よりも古い時代のものではないか。
■ 「説3溶岩流から守るための防護壁」が決定的ではない理由:
青木ヶ原溶岩流は5m~10mの厚さがあり、同じ程度の溶岩流を想定するのであれば、2m弱の壁では防ぎ切れないのではないか。
ということで、どの説も決め手に欠けるのです。
謎を秘めたまま今日まで来ている石塁。もう1つ“謎”があります。
弧を描いた形に配置された石塁ですが、1か所だけ「クランク」状になっているのです。
このクランク形状が戦国時代の砦を囲む壁のように見え、これが戦国時代の防御施設ではないかという根拠にされることもあります。
しかし、「クランク」状になっているからと言って城壁をまねたわけではなく、これだけ巨大な構築物なので、東側から造ってきたグループと西側から造ってきたグループの接点となる場所がずれてしまった。そのために、辻褄を合わせるためにずれた部分を繋げたという可能性が考えられます。
また他の理由としては、その場所は窪地になっているために、地形に合わせて石塁を曲げる必要があった可能性もあって、断定ができない難しいところがあるのです。
いまだに謎を含んだ「石塁」
この夏、謎解きに思いを巡らせてみてはいかがでしょうか。
「石塁」は東海自然遊歩道に沿って見学することが可能です。
なお、青木ヶ原樹海は国の天然記念物であるため、遊歩道を外れて立ち入ることは禁止されていますので注意して下さい。
_ノ乙(、ン、)_グーグルマップに写真が投稿されてた
遊びで
作ったやつかな?
当時の石垣を学ぶ為に沢山の石工が学びに来た、石工職人は引く手数多の職人、豊富に有る溶岩石から野面積みを学び地方へリクルート、。
_ノ乙(、ン、)_ここって上九一色村なのねw
宮下文書に書いてあんじゃん
しかし知られることなく終わった
それは負けたからではなかったかもしれない
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