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戦国武将・石田三成の重臣・島左近のものと伝わる墓の発掘調査が5日、京都市上京区の教法院(きょうぼういん)で行われ、ほぼ全身の骨が見つかった。左近の骨かどうかは不明だが、今後、骨の年代などを調べるという。
左近は「治部少(三成)に過ぎたる(もったいない)ものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と評されるほど有能な家臣だった。関ヶ原の戦い(1600年)で討ち死にしたとされるが、生き延びたとの説もあり、墓が左近の出身地とされる奈良県など各地にある。
教法院の墓には、左近が土葬されたと伝わる。墓碑と過去帳には、左近が1632年(寛永9年)に没したと記されている。
調査は、墓石の修復と建屋の新設に伴い、京都市文化財保護課や京都芸術大の石神裕之教授(近世考古学)らが実施。読経後に墓石があった場所を約20センチ掘ったところ、甕(かめ)式の棺(直径45センチ)が見つかり、中に頭や顎、骨盤などの成人とみられる骨が入っていた。
調査に立ち会った歴史学者の磯田道史さんは「左近は民衆や敵方からも崇敬を集めた武将だった。本人の骨かはわからないが、研究が進むのを楽しみにしている」と期待した。
教法院の三木天道住職(53)は「今後、専門家と協力して骨の調査を進め、実像に近づければ。墓所は整備後に改めて公開したい」と話している。
6/6(木) 12:46配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/577541bd265bbb5c3e6182b799bc1fb32831b538
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戦国武将、石田三成の腹心で、慶長5(1600)年の関ケ原の戦いでの勇猛な戦いぶりが伝わる島左近の墓の発掘調査が5日、立本寺(京都市上京区)の塔頭(たっちゅう)、教法院(きょうぼういん)で行われた。関ケ原で島は討ち死にしたとされる一方、遺体は見つからず、合戦後の消息については生存説を含めて複数の説があった。この日の調査では複数の人骨が見つかり、三木天道住職は「骨はないと思い寂しい気持ちだったが、(骨が見つかり)ありがたい話だ」。今後、さらなる実態解明を進める。
三木住職によると、島の墓所は全国に5カ所ほどあるというが、教法院の墓石には唯一「土葬」との文字が刻まれている。教法院には島の墓牌と過去帳などが残されており、それによると島は関ケ原の戦いから32年後の寛永9(1632)年に亡くなっていた。また三木住職は、関ケ原の戦いの後も島が京都で生存していたなどの証言があることも強調した。
発掘調査は島の墓石の修復や建屋の建立に伴い実施された。この日、調査に先立って墓前で三木住職が読経する中、関係者が手を合わせた。その後、協力した京都芸術大の石神裕之教授(近世考古学)らがスコップで土を掘り、慎重に作業を進めた。地表から約20センチ掘り進めた場所で壺が見つかり、中から頭蓋骨や骨盤などが見つかった。骨は状況から18歳以上の成人とみられる。石神教授は「(骨は)大変いい状態で残っている」と話した。
「治部少(石田三成)に 過ぎたるものが二つあり 島の左近に 佐和山の城」と評価されるほどの武将だった島。だが関係史料は少なく、その実像には謎が多い。教法院や関係機関は引き続き調査を進め、島の生存伝説の解明を目指す。(森天音)
6/5(水) 18:47配信
https://news.yahoo.co.jp/articles/9358ea5ed8ecc9e6dfa02d1180c57cbe6642c1f6
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顔バレするは
この時代は殿が死刑なら家臣は切腹だろう
意外
静かにしとけよ?
出家でもしたとか?
戦国時代から20cmぽっちの土が雨風に流れもせず暴かれもしなかったのか?
どうも胡散臭いな
島左近て人物は小さかったんだね。
長く国政の中枢を任されて次代まで任されたほどの逸材だから
ぬるま湯みたいな平和な時代の名無しの凡夫どもがどうこう論評する対象じゃない
バチが当たるわ
この時点で本物の可能性はほぼ0やな
その辺の素浪人の死体埋めただけ
大河ドラマでやって欲しい
架空の人物だろ
二日酔いによく効くみたいな
謙信は上杉家が調査許してくれないのよね、実は女説とかあるけど
一方通行の突撃や味方をトカゲの尻尾切りして逃げた奴より
突撃してシッカリ帰還まで往復した方が凄いと思うんだけど
朝鮮出兵にも参戦して加藤清正救出戦にも参加し活躍てるのに
リーダーシップもなく
上に媚び下にはきつく蔑み
それでいて自身の戦の力量はとても低かった
ただ帳簿の几帳面さや正確さは当時の武将の中では突出していた
今で言えば役所の事務方にすぎない
【実際の上杉謙信】
・十代でアルコール依存症になる
・アルコール依存症から統合失調症と糖尿病を患う
・糖尿病のせいでインポになり子供が作れず
・統合失調症の誇大妄想を患い「神の声を聞いた」「私は神の生まれ変わり」と電波発言を繰り返す
・神の自分に逆らう奴には天罰を降すと粘着攻撃を繰り返す
・手紙にも馬鹿だの愚か者だとのと罵詈雑言を並べ立てる
・自分が優勢になると神の慈悲を与えると敵だった奴にも塩を贈る
・酒乱で酔って暴れ度々家臣を斬り殺す
・家臣に面倒臭がられ距離を置かれると「何で俺のことそんなに避けてんの?俺の事がそんなに嫌なわけ!?」というネチネチした手紙を送りつける
・そんな上杉謙信に嫌気がさして部下が謀反を起こしまくる
・「神の自分が圧政に苦しむ民を救う」と近隣諸国に攻め込みその土地を治めず、青田刈りをして自領に戻るを繰り返し民を苦しめる
・戦の決着がつく前に自領に撤退するから勝ち戦も負け戦もほぼ無く引き分けばかり(自称勝ち戦ばかり)
・それに反発した近隣の民を捕まえ奴隷として売り払い大儲け
・糖尿病が悪化して左脚が壊死、馬に乗れなくなる
・トイレで力んだ拍子に脳の血管が切れて死亡
徳川の再興を願いつつアパートで生涯を終えた最後の大名。
とはいえ三成が佐和山の半分の知行を与えてたようだし、実は利休七哲筆頭の万能大名氏郷とか
秀長にも仕えてて、部隊指揮はほぼ任せてたって言われてるから軍事的な能力は相当買われてたのだろうけど
ちなみに筒井家にはあの島原の乱で有名な松倉の親父も仕えてたのよなw
だったらめちゃくちゃ驚くけど…このニュースでは大して驚かんわ
怪談の人の兄らしい
夏八木勲さんに似てるか興味あるわー
それでも他の有能浪人衆同様、重用されず意見が通らなかったかもしれんが
最近じゃコーエーでも島左近以上の評価に変わりつつあるようだが・・・w
徳川家ってあんなのがゴロゴロ居たんだからそら天下取るわなw
西軍は戦が始まったらソッコーで崩壊して
島左近もとっとと三成見捨てて
自分は死んだことにして
逃げ延びたってのが正解なんだろうな
関ヶ原の本戦には参戦してなかったのがこれまでの史実とされてた気がするけど
元々結構いい年だったはずだから関ヶ原後まで生きたとしても
そんな長くはないだろうし大発見!みたいな話とは違う気がする
島左近は江戸時代を生き抜いたという新説爆誕
>教法院の墓には、左近が土葬されたと伝わる。墓碑と過去帳には、左近が1632年(寛永9年)に没したと記されている。
普通に92歳まで生きるって考えられんな
石田三成は知ってるけど
西軍の総大将だし腹心なんて沢山居てその中の1人程度のヤツだろ
いたらDNA鑑定してみて欲しい
武将プレイで島左近は歯応えがあった
久しぶりにまたやろうかな
中年以下の骨だったら偽物ということでw
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