科学の成果が、歴史を裏付けた
藤田 達生歴史学者
「通説」を「科学」の視点からくつがえして大反響を呼んだ『日本史サイエンス』は、このほど第二弾が刊行され、たちまち重版が決まるなど話題となっている。著者の播田安弘氏が試みる「数字」で歴史を読む手法は、専門家もその意義を認めるところで、
なかでも織豊期研究の第一人者・藤田達生氏(三重大学教授)は、同書(第一作)で展開された「中国大返し」についての大胆な仮説におおいに共感し、ここに掲げる論考を執筆した。旧暦では本能寺の変から440年目にあたるきょう、改めて公開する。
藤田氏自身、最新著『戦国日本の軍事革命』では信長・秀吉らの天下統一を火器と兵站システムに注目して読み解く新視点を展開しており、いま、戦国時代研究は新しいフェーズに入った!
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/95480
実際の行程を推定してみる
本能寺の変のあと、秀吉が光秀を倒して信長の後継者として認知され、天下の趨勢を決したのが「中国大返し」だった。それは、秀吉が中国地方の毛利氏攻略のため布陣していた備中高松城(岡山県岡山市)から、光秀との決戦の場となった山崎(京都府大山崎町)までの常識を超えた高速の行軍だったとされている。
(写真)
6月5日~13日、高松から山崎まで8日間で走破した「中国大返し」の行程図(筆者の推定)
『日本史サイエンス』第2章「秀吉の大返しはなぜ成功したか」において著者の播田安弘氏はこの行軍を、読者が理解しやすいよう、約30kmをコンスタントに8日間歩いたという想定のもとで難易度を科学的に考察している。
ただし実際の中国大返しは表に示したように、備中高松から秀吉の本城だった姫路城(兵庫県姫路市)までの前半と、姫路城から山崎までの後半では、異なる性格をもっていたと考えられる。
(写真)
中国大返しでの日ごとの移動距離と宿営地
前半は、毛利軍の追尾を警戒して2~3日間で92kmを走破するという猛烈に速い進軍だったのに対し、後半は、明智光秀側の動きもにらみながら慎重に行軍している。たとえば、光秀と親しい土佐の長宗我部元親の摂津上陸を阻むため、別動隊が淡路を攻撃したのは効果的だった。
筆者は、実際の1日あたりの平均行軍距離は、前半3日間は約30km、後半5日間は約20kmだったと判断する。また、前半の姫路城に帰るまでに必要な物資は、ふだんから用意されていたと考える。そして姫路城において、6月9日からの後半の行軍に必要な物資が、総がかりで準備されたとみるべきであろう。
おにぎり20万個を用意できるか?
→https://gendai.ismedia.jp/articles/-/95480
また目立とう精神の歴史学者かよ
マジでいい加減にして欲しいわ
武具装着とは言え1日30キロの移動なんか別に凄くも珍しくもないわけで
これを異常扱いしてる歴史家達ってどんだけ運動不足のヒョロガリもしくはピザなのよ?
行軍の訓練してないからなあ
一般人で軽装備でいい靴履いても
20キロも歩くと足に豆できるぞ
まあ慣れの問題よね
江戸時代の旅人とか凄い距離歩いてる
車無いから歩くの当たり前なんだよね
そもそも秀吉が必要も無いのに信長に援軍頼んでる時点で真っ黒黒スケ。
バラされたく無いから家康も討伐出来ずだな。
秀吉は毛利責めだぞ、帰す刀で四国討伐もあるのだから
援軍を頼むのは不自然では無い
必要になったらあっさり降伏させられるのに呼ぶ必要ねーべ。
>>405
猿「あっえーと、ゴマスリゴマスリ ははは」
あれは世渡り上手な秀吉のごますりの一環。
まーたこの手のか
実際はタイムマシンでもなきゃ分かんねえよ
現代感覚で語ってて笑った
なにこれ「準備面から事前に知ってないと不可能、だから知ってたに違いない」ってだけ?いまさら根拠それだけ?
移動が速かったからだけを理由に知っていたってアホなん?
秀吉が出した手紙とかの裏付けも無しでさ
そうなんだよね
当時は馬もいたし輜重隊も存在していたから
移動速度については何の不思議もないんだけどね
つまり、
桔梗紋の連中は秀吉と朝廷が仕組んだ暗殺部隊…
信じられんな
秀吉黒幕説の最高峰は山田風太郎の「妖説太閤記」面白さ保証
一番悪いのは明智光秀の子孫
信長大好き秀吉に罪を擦り付けようとするから
こんなん、秀吉は撤退戦何度も経験してるから、いざというときのために後退用の後詰めしてた可能性で論破やん。
明智光秀の計画は蘭丸から見抜かれていたけどな
それで信長は怒り光秀を尋問
光秀は必死の泣き落としで信頼を得た
ただそれだけの事
明智光秀はこれ以上の嘘は無理と考え本能寺の変へと及んだ
>>1の説が合理性があるな
早馬でも2日189㎞の伝達は無理だろ
モンゴルとか馬を二頭以上連れているから
早馬も途中に馬を置いていれば不可能ではない
戦国大名たちの能力舐めすぎ
情報と兵站が戦で最も重要な事を彼らは理解してた
少なくとも太平洋戦争の日本よりは
その意見を採用すると秀吉は事前に知っていたと言いたいんだな
いいや
高松の秀吉が知ってるなら信長も当然知ってるはず
なんの前兆も動機もがないから成功したんだよ、光秀の謀反は
いくら情報収集力があっても電話もネットもなくて情報を伝えるには人が動かないといけないんだぞ
今となっては決定的証拠が新たに出てくることはないだろうが秀吉は限りなくクロに近いダークグレー
戦国時代の兵站は基本的に小荷駄。
太平洋戦争よりさらに酷いぞ。
途中で人も馬も交代を二回くらいすれば余裕なんだけどな
なーんの不思議も存在しない
馬も人も交換しないというのなら人にとっても馬にとっても極めて重労働だけどな
そんな交代できないじゃん
道を確保していた秀吉なら簡単だろう
そういうのには秀吉は万全を期すからね
ただ単に中継地点に馬と人を置いておけばいいだけの事
中継地点に置けるかよ
あたまの悪さが半端じゃないな
どうしてだよ?
お前が半端じゃないアホだからか?
ちゃんとした理由も書けないようだしね
重要なのは当時は馬を利用していたという事
輜重隊も存在していたので別にそんな不可能な事ではないのな
しかも道も信長のために整備していた
間違えてるよ
全部陸路で設定してるけど、正解は海路
https://i.imgur.com/cEKjciD.jpg
つまり重装歩兵を解体して軽装騎兵と軽装歩兵を先に進発させたの
で、あとから船で武器を送った
しかも行く先々で金の力で徴募したから、数が揃った
槍足軽ならとりあえず訓練いらない
しょっぱい石碑はたってるなz
寺が無いもん
京都の商店街のちょっと奥に移転して現存してるよ。
京都に住んでた時時々行ってた。
燃えてなくなったからや
小学校になっていたからな
燃えたの知らんのか
だれが燃やしたん?って聞いてみる
クックロビン
史実かどうから解らないけど、襲撃の時に火をつけてるよ
燃えたってマジか!?
学校では教えてくれへんかった・・・
ホテル本能寺は名所化されとるぞ😡!
クソだな
信長記念館を造って人生観に浸りたいだろみんな
信長ゆかりの地なんてほかにも大量にあるからいいだろもう
都内に信長メインの美術館あって
ある意味、信長記念館だと思う。
四条のほうは本能寺老人ホームになってるな。西洞院から堀川通りあたりまでが元の本能寺だから相当デカい。
今の本能寺は移転後だから。
でも信長の墓はあるよ
移転前の旧本能寺は焼け落ちて別の場所
ここね
https://ja.kyoto.travel/tourism/single01.php?category_id=8&tourism_id=900
むしろ足利義昭か秀吉か或いは両方が黒幕だった説があってな
関係的には
秀吉=義昭(上司)>>>光秀(部下)
光秀捨て駒説
そうなるように料理人だか配膳する人間だかを買収した可能性もあるぞ?
秀吉「えれーめにあった。死ぬかと思った」
光秀「どちたの?」
秀吉「上様に濃い味の料理だしちゃった切れちゃって。切れると手を付けれなくなるんだよなあ」
光秀「えー。やばいよ。おれ来週饗応役なんだよ。まじかよ。嫌だなあ」
秀吉「とにかく薄味にすることだよ。間違いない」
光秀「サンキューな。お前イイやつだな」
胴体真っ二つに切ったけどノブがそれをくっつけたからな
アベの中国大歓迎
攻めている最中でも自分の領土を落とされない様に防衛と分隊するのは基本だもんな
明智の軍は秀吉に援軍のための軍だったわけで
それのために準備はしてたろ
信長が中国に来て毛利攻めの大詰めをする予定だったんだから
経路に準備が整っているのは当たり前なんだよなあ
定説を覆す!が最も簡単に注目を浴びやすいからな
磯田みたいにニッチから成り上がるのは難しいし
だから俺は明確な証拠が残っていない歴史に興味を持つのは無意味と思ってる
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