当時それでみんな納得しとったんやからそれでええやん
千年以上経ってケチ付けるのアホやろ
先代の天皇が身内を殺しまくってしまい、後継者がいなくなって
朝廷の貴族たちが天皇の系図を調べて、天皇になれる人を探し出して
今の福井県あたりの豪族をやっていた人を天皇として即位させた
その天皇が継体天皇
陰謀論?なのかな?
今の天皇家につながるのがこの継体天皇からで
その先とは本当は血のつながりがない説が吹聴されている
昔から継体、崇神、神武は別系統と言われてるね。
宗教祭祀的に見ると天武系も親戚だが別王朝っぽい
俺は評価するぞ
面白くないのに笑ってしまった
腹立つ
今の天皇家が朝鮮人だって言ってる奴いるけど根拠は何なの?
ググっても出てこないんだが?
騎馬民族征服王朝説(神武天皇を朝鮮半島から日本を攻めてきた騎馬民族の長であるとする説)
今では考古学上の発見によって完全否定されたトンデモ説だが、
持て囃されてた頃に手塚治虫や安彦良和ら有名漫画家が自分の作品に積極的に取り入れたせいもあって、未だ信じてる人も…
あれは現人神で言論が封じられていた時代から研究の自由みたいな意味で新時代の到来を評価されたことが一番重要なんだよ
なに人とかはなんだが百済系の血は何パターンかではいってる
中華渡来人の名前みえる
まあ系図をかなり遡って確認できるのはこの一族以外いないから誰でも似たようなもんかもしれないが
実在が確実視されている雄略が21代
継体が26代
応神が15代
崇神が10代
神武が初代
後世の南北朝の南朝最期の長慶天皇もけっこう謎が多いらしく
その後裔の玉川宮家も謎が多いようね
この時点で男系ルールを重視したってことは継体天皇ルーツの応神天皇の時期に男系ルールがあったと言える
1600年前から現在まで天皇家の男系継承ルールが続いてるのは確実
継体天皇ではなくて手白香皇后経由になるけど
男系でというならあの系図がどこまで信憑性があるかにかかってるけどそれでも千年以上続いているから別にいいんじゃね
>>15
女系のルールが全く整備されてこなかった時点で男系ルールでやってたとわかるよね
大体女系でOKなら道鏡事件なんか起こらないし、そのほんの数十年前には女系どころか皇后に皇族以外が立つというだけで紛糾してたし
中華の易姓革命のような王朝交代や王位簒奪があったとして臣下のメンバーが変わらないってことは有り得ないんだがここのところ分かる人いる?
お飾りだとするならばわざわざ越前から引っ張らなくても自分らで連合政権なりなんなりすればいいじゃん
まだこの頃に皇室王室の血統の絶対性がないんなら
祟りとか恐いじゃん
応神天皇の5世の来孫は正当性を補強するための後付け
そもそも「継体」ってw
みたいなことだろう
逆に言えば継体天皇から万世一系とも
これ
ところが憲法14条によって旧皇族(国民)は皇族になれない
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
詰んでる
その解釈はおかしいだろ
ならば上皇后陛下や皇后陛下、皇嗣殿下妃は憲法違反か?むちゃくちゃ言うな
紀子さまは婚姻によって皇族になったんでしょ
門地によって皇族にはなれないだろ
なんか四角いおっさんだなあくらいしか
だったらもうちょっと上手く話作れよとも思うがw
雄略天皇については、その真名であるワカタケルが万葉仮名で記された銘文入り鉄剣が二例確認されているし、
宋書東夷伝に出てくる倭国の王・武である可能性が高い事から
ほぼ実在と見ていいかと。
続く安閑、宣化、欽明の三代の継承についても
よくわからないところがある。
欽明の代で体制が堅固になったとも見られることから、
あまり一般に語られている天皇ではないが、
欽明天皇は古代日本史の重要人物である可能性も大。
継体・安閑・宣化が同時に亡くなったみたいな記録もあったらしいな
確か仏教公伝も欽明天皇の代だったよな?
越前系の兄皇子と
母系旧大和系の欽明天皇とで争ったんじゃないの
後世に天武天皇の幾多の皇子の中から
天智天皇孫の草壁皇子が立太子するみたいに
中大兄皇子側が乗っ取って天皇自称したっていう
何そのとんでも
蘇我蝦夷が山背大兄王(聖徳太子の子で自分の甥)の即位に反対、舒明天皇の即位を支持して
蘇我氏の中の他の人達と喧嘩しているあたりからして
それはないな
なんで甥の即位に反対したんだ
蘇我氏は欠史八代の途中で別れているけど
継体天皇は流石にそこまで遠くないんだよね
蘇我氏が葛城氏の傍系同族であるという記憶が受け継がれているぐらいなんだから、
継体天皇が応神天皇の末裔だという記憶ぐらい、嘘なら嘘でもっと大事になるか
天武天皇と稗田阿礼の時に継体天皇を初代天皇として神話を編纂するぐらいのことをしたんじゃないの?
神武天皇が大和に入ったとき、大和に元々何らかの政権があって、神武が滅ぼしたと神話にきっちりと書かれている
継体天皇だって、なんだか訳分かんない蛮族を滅ぼして国のまほろばに遷都しましたよという神話になってもおかしくない
口伝だから信用できないというのは当時を舐め過ぎ
当時は根拠があったんだろうか?
淡海三船…大友皇子の曾孫。諡号を考えるとき何を思ったのかね。
リリーフ天皇って意味になるしな
なんか軽く扱われている気がする
しかも天皇に即位してから大和に入るまでに20年もかけているのはなぜか?
大和に入ると魑魅魍魎のような貴族たちに支配されそうで慎重に自分の体制を整えてから大和に入ったのだと考えると
なかなか慎重にことをはこぶ戦略家だったようなイメージ
太田茶臼山は誰の墓なのよ
共通点として探せば継体天皇も持統天皇も別系統の中に婚姻で入ってきたということかねえ
継体天皇と近いのは光仁天皇だと個人的には思う
信長の織田家も越前織田荘発祥
対朝倉戦争もいってみれば斯波家の家老同士の覇権争いともいえるよな
継体天皇は滋賀県高島郡生まれの滋賀作、まあ応神天皇の実母の神功皇后も滋賀作だし
前の天皇家も滋賀作の血、継体(滋賀作親父+福井母)天皇も滋賀作なのでネトウヨは
しらんが俺としては問題ない。
継体天皇
『日本書紀』によれば、450年頃[注 2]に近江国高島郷三尾野(現在の滋賀県高島市近辺)
で誕生したが、幼い時に父の彦主人王を亡くしたため、母・振媛は、自分の故郷である
越前国高向(たかむく、現福井県坂井市丸岡町高椋)に連れ帰り、そこで育てられ、
「男大迹王」として5世紀末の越前地方を統治していた。
藤原鎌足の正室鏡王女は近江人 → 藤原摂関家=滋賀作→近衛文麿=滋賀作
淀殿は近江人 → 豊臣家(秀頼)=滋賀作
崇源院(お江)は近江人 → 徳川将軍家(家光)=滋賀作
継体天皇は近江人 → 天皇家=滋賀作
俺すげぇえええ!
明治政府が作り上げた神道なんて新興カルト宗教に過ぎない
神道の神は仏みたいな救ってくれる存在とは全く別の、ちゃんと祀らないと災いが起きるような面倒なものだしな
江戸時代以前どころか平成の中頃まで神道と仏教は分かれて無いので
神道と仏教を明確に分けるようになったの、割りと最近だぜ
よし俺が神の子孫の「天皇」だ!(唐のマネ)ってなって
俺の先祖どこまで遡れる?オオド(継体)?
その前の王朝とも繋がってることにしろ!そういう歴史書作れ!ってできたのが日本書紀
前の王朝を神と繋げたら自分も神と繋がってたことになる
それを日本書紀の最初から順番に読んでるだけ
俺は天武から1300年繋がってるだけでもすごいことだと思うけど
2600年とか言われると恥ずかしいわw
唐のマネってのは唐の高宗が使った名称を真似したってことね
日本書紀編纂段階では中国の歴史書に精通した帰化人が関わってるからそことの整合性を取りつつ持統女帝が孫に譲位するのを正当化するためにアマテラスと神武を作った
伊勢神宮も確認できるのはそのころから
天武と持統が作った体制が1300年も続いてるんだよ
それだけですごいだろ
そりゃ天皇って名前と血統だけで天武が考えた皇親政治は持統による粛清と藤原外戚政治により速攻崩壊、天武朝も途絶える
天皇制は何度も変容していて、伝統は何度も改変されている
天武天皇系は御寺泉涌寺に祀られてない正統性のない別王朝
後堀河天皇以前の天皇も祀られてるの?
そもそも中大兄皇子の弟じゃない説があるしね
壬申の乱は大海人皇子と大友皇子がタイマンで喧嘩したわけじゃなく、大海人皇子につく豪族と大友皇子につく豪族が戦ったんでしょ
大海人皇子が天皇の血筋じゃないなら
大海人皇子に権威もないし正統性もないわけで豪族が大海人皇子側について戦うメリットが無くなるわけで大海人皇子は勝てないし勝てない以上歴史を改変することもできないじゃん
それどこに載ってる説なん?
>>120
江戸時代くらいになるとさすがにゆるくなるけど自分の外孫が天皇になるかならないかで朝廷内で権力握れるかどうかの時代は自分の娘に対してもだけどライバル側もお互いに監視してるだろうよ
不義の上に簒奪の罪でライバル一族を根絶やしにできるからな
しかも後宮にいてスマホで連絡できるわけでも自由に出歩けるわけでもプライバシーがあるわけでもないのに
兄弟じゃない説があるのは見てきたが兄弟じゃない説も弱いね
>>147
簒奪者と呼ばれないためには自分の正統性をアピールしなきゃならないもんな
継体天皇はクーデターで奪ったわけではないみたいだけどやっぱり直接の先祖が簒奪者と呼ばれるのは避けたかったんだろう
なんだか忘れたが年齢順が逆に書かれてたりするんだよね
つまり25代まではケータイテンノーによる捏造。
自分を神格化するための嘘の神話を捏造した。
「福井王朝」に移行ってことだわな
殷墟とかでもがっつり系図のこってるしな
なかなか大和朝廷に入らなかったのも、反対勢力が寿命で死ぬまで待って、さすがに暗殺を危惧した保身でしょ
息長氏(おきなが)は古墳時代頃の日本において、琵琶湖の水運で繁栄した氏族。
15代応神天皇や26代継体天皇と関係が深いとされる。息長氏の祖・意富富杼王は継体の
曽祖父であり、つまり継体も息長氏の出身となる。継体以降の現代まで続く天皇家も息長氏
を祖とすることになる。また、文献史料上は9代開化天皇・ヤマトタケル・トタチバナヒメ
・神功皇后らも近江の息長氏との関わりが記される。
坂田郡南部天野川流域には全長約45mの山津照神社古墳や全長約46mの塚の越古墳全長約
51mの人塚山古墳などが、5世紀末から6世紀後半にかけて築かれている、更に、琵琶湖の
西岸にある滋賀県高島市の田中王塚古墳は、継体天皇の父・彦主人王の墓とされている。
あれは新羅が任那を攻めたから救援軍送ろうとしたら新羅が筑紫の豪族磐井に贈り物をして
大和の救援軍を襲撃してはじまった戦争だから腹いせではないだろ今のネトウヨ全盛期に
同じことやったら逆に九州敵視されるだけだしw
ちなみにこれは、中国後漢の光武帝と同レベル
愛子様悠仁様世代から見ると、5代前は明治天皇になる。明治天皇を先祖に持つ男性を探してきて愛子様と結婚させるとちょうど同じシチュエーションになる、(現代の道義上まわりがそれをさせるのが許されるかはおいといて)
前も書いたが徳川家茂と徳川慶喜は男系だと家康までさかのぼる必要がある
ここまで離れた継承は世界にも例がないのではないか?
しかし、西暦500年程度のことで詳細不明になるのだから当時の日本はやはりしょぼかった
中国なら500年代ともなれば大体のことがわかるのにな
年代的に壱与説がある人で年代の計算によっては卑弥呼説もあるとかでヒメミコを当時使者
の口伝でヤマトをヤマタイ、ヒメミコをヒミコと記録したって推察もある位の人だよな
日本書紀だと悪逆非道で良いことは一つもしなかった暴君扱いなのに、古事記だと公正な裁判をしたけど皇子がいなかったとしか書かれてない
しかも悪逆非道の内容は殷の紂王とかの悪行をそのままコピペしたような内容っていう
日本書紀は大本営発表
存在自体怪しまれてる天皇もいるし、これは歴史じゃなく神話もといお伽噺
1年が4年で考えるべきみたいよ
ある程度は後世の人も帝記とかで本人についてわかったんじゃないの
細かい事象は粉飾されてる可能性大だけど
まあなんとなくしっかりとは書けないような出自だったんだろうとは思うが
分かっても不都合過ぎて真実を公表出来ない。
色んな技術を持っていたので、三国時代の紛争から逃れて東アジアに広く進出。
例えばよく名前の出る竹田は明治天皇の玄孫ってところがクローズアップされるけど、実は男系としては南北朝時代まで遡らないといけないんで継体天皇を根拠にしても遠すぎる
伏見宮家は同じ条件なうえにここはご落胤であるとして刀鍛冶連れてきてそのまま続いてるから正当性的にかなり怪しい
継体天皇で入れ替わったのなら尚更純血天皇なのに悪辣だったわけだし
簒奪だとしても天皇王朝の長さはそれでも圧倒的だから簒奪した血統がクソというだけの話
その直前の九州倭王の良い業績を雄略に、悪い業績を武烈に
集約させた。
全部悪く書けなかったのはワカタケルとして東は関東までの人々に
知られることになった功績を抹殺することができなかったから。
それだけ(´・ω・`)
継体天皇陵ではないかと推測されているな
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